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今日の気になるニュース8
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投稿日:2010年05月20日(木) 21時10分27秒
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756
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投稿日:2010年06月17日(木) 02時02分48秒
【日韓歴史】 我が民族は騎馬民族、かつて満州原野から日本まで支配
http://www.newscj.com/news/photo/201006/46981_40285_2017.jpg
▲慶州天馬塚で発見された天馬図(写真提供:文化財庁)
韓日歴史学界で我が国の馬文化が日本に伝えられた、という理論が引き続き提起されている。
ホン・ユンギ韓国外大教授は「古朝鮮扶余族は古代扶余(古朝鮮の古代満州)から韓半島まで勢
力を伸ばして南下してきた」としながら「また勢力を拡張した場所は、まさに海の彼方の島国、倭国」
と説明した。
日本の考古学者、三上次男も「日本国家を作った主体の大部分は狩猟民族の扶余、すなわち騎
馬民族である」としながら「騎馬民族が韓半島から北九州に流入した時期は西紀(BC)2世紀頃」と
語った。
ホン教授と三上博士および古書によれば我が国は本来、騎馬民族だ。騎馬民族は馬によく乗り、
弓をよく撃ちながら扶余であった満州原野を走りまわった。扶余は古朝鮮時代、韓国人らが率い
た広大な国土であった。その中でも馬によく乗り弓をよく撃つ人物が朱蒙(チュモン)だった。
今から約2000年前、東扶余の金蛙王の王宮で朱蒙は自分を守るために馬に乗って南側へ向か
って卒本州に到着した。そこを基点に建国して国号を「高句麗」と名づけた。それから約400年後
扶余、過去の国土を回復する広開土大王と長寿王が大高句麗時代のドアをあけた。
韓国人がよく馬に乗る騎馬民族という事実は高句麗古墳壁画の騎馬図など馬をあつかう様々な
絵が証明してくれる。高句麗だけでなく伽揶・新羅・百済の遺物からも発見できる。古代新羅人が
使った各種馬具の装飾を調べれば、玉虫装飾の鞍脚受け台の他にも慶州、天馬塚などがある。
ホン教授は「新羅も高句麗、百済とともに満州原野を駆けた一つの血筋の騎馬民族であることを
語ってくれる」と言った。
757
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ヾ(゚д゚)ノ゛バカー
投稿日:2010年06月17日(木) 02時03分36秒
>>756-757
1992年には慶南咸安郡伽揶邑道項里で馬鎧が出土し、伽揶人もやはり騎馬民族であることが確
認できる。馬鎧は魚のうろこのような四角形の鉄片が一方に340余片から構成されていた。これ
は戦場に出て行く馬の身体にまいて敵の矢や槍剣にささらないようにするための馬鎧だ。
ホン教授は「我が民族は軍馬を大事にした騎馬民族」としながら「伽揶古墳で発見された馬鎧は
昔、高句麗古墳の平南龍岡の双楹塚に描かれた馬鎧と全く同じと見ることができる」と伝えた。
扶余と韓半島を率いた騎馬民族は海の彼方、島国倭国まで勢力を広げていった。
実際に1990年から発掘調査された金海大成洞古墳群で環頭大刀など武器類および甲冑類など
騎馬と関連した遺物と共に巴形銅器・碧玉類など倭系統の遺物が出土した。当時、伽揶と日本が
交流していたと解釈される。
日本の著名な考古学者、故江上波夫は「韓半島騎馬民族が倭国を征服して再び新しい国家を作
った」として「北方騎馬民族が韓半島を経て日本の大和政権を成立させた主役」と説明した。これ
は最近になって主張されたのではない。すでに江戸時代にも騎馬民族説が提起されていた。18
世紀考証学者、藤貞幹(1732〜1797)は「日本人の大部分は百済人」と主張したことがある。
キム・ジユン記者
ソース:ニュース天地(韓国語) 騎馬民族、満州原野から日本まで
http://www.newscj.com/news/articleView.html?idxno=46981
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