- 1投稿者:ぜんこさん 投稿日:2012年06月25日(月) 13時56分44秒
- 江戸大坂間で幾らくらいだったの?
- 2投稿者:Steavic 投稿日:2012年06月25日(月) 14時03分33秒 ID:fyDcyXS3
- あと、通達率。
100通出したとして相手に届いた手紙は何割くらい?
- 3投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛アホー 投稿日:2012年06月25日(月) 14時27分09秒
- 江戸と京阪の間の速達に相当する四日限で4両という記述があったけど
通常は30日かかるらしく料金は書いてなかった
また、到達率も書かれてなかったけど、かなり紛失とかあったみたいだ
- 4投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー 投稿日:2012年06月25日(月) 14時39分34秒
- http://homepage1.nifty.com/saga-t/kappa/watashi/hikyaku.html
- 5投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー 投稿日:2012年06月25日(月) 15時05分43秒
- それ以降擬似ることない演出
- 6投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛アホー 投稿日:2012年06月25日(月) 15時15分22秒
- 人が寝泊りしながら持っていくのかな。それともバケツリレーのような
物流網がすでに構築されていたりするのか。
- 7投稿者:Steavic 投稿日:2012年06月25日(月) 15時17分52秒 ID:fyDcyXS3
- バケツリレー方式であったことは確か。
- 8投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー 投稿日:2012年06月25日(月) 15時35分58秒
- (1)飛脚が襲われることは、ほとんどありませんでした。
飛脚問屋は幕府や諸藩公認の職業でしたので、そうした飛脚を襲撃したりすれば、たちまち、大捕物となり、捕捉された場合は、罪が軽くても「遠島」または「死罪」となりました。
また、飛脚には飛脚問屋と宿駅問屋があり、宿駅問屋は幕府公認で各宿場にあり、公用事には無償で隣の宿駅まで荷駄を運ぶことが義務付けられていました。そして、常に、ある程度の馬を待機させていました。しかし、常に仕事があるわけではありませんので、常備している馬で武士や商人の荷駄も運びましたが、その距離は、次の宿駅まででした。
飛脚も同じで次の宿駅まで信書を届け、次の宿駅では、次の宿駅までを届ける・・・という、まさに「バトンリレー」だったのです。
従って、一人の飛脚が走る距離としては、せいぜい2〜3里だったのです。
信書が紛失したり盗難にあったりすることも、なかったとは言えませんが、現代のように、報道されることなく、闇から闇に消えたものとおもいます。
(2)荷物が紛失した例はあります。
尾張藩公認で、幕府の許可も得て京都、大坂、江戸を中心に各地に支店を構えていた飛脚問屋の「井野口屋」の記録で、享保8年(1723)〜天保14年(1843)までの記録、原題は「井野口屋飛脚問屋記録」には、飛脚荷物の盗難や事故の記録、風水害による荷物の遅れなどが記されているようです。
http://qanda.rakuten.ne.jp/qa5899832.html
- 9投稿者:ぜんこさん 投稿日:2012年06月25日(月) 16時02分18秒
- まさに
親方3里は8里でござるだなあ
- 10投稿者:大 投稿日:2012年06月25日(月) 16時04分31秒 ID:kFiti5Fm
- こうは元気かな…
- 11投稿者:Steavic 投稿日:2012年06月25日(月) 16時24分21秒 ID:fyDcyXS3
- 駅伝てまさにこんなことから派生した競技なんだよな。