故郷は遠きにありて思ふもの
1投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2010年03月08日(月) 22時10分03秒
そして悲しくうたふもの
よしや裏ぶれて 異土の乞食となるとても
帰る所にあるまじや
独り都の夕暮れに 故郷想ひ涙ぐむ
その心もて
遠き都に帰らばや
遠き都に帰らばや
2投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2010年03月09日(火) 08時05分46秒
解説
http://www.geocities.jp/the_longest_letter1920/syoukei_ijou.html
3投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛アホー  投稿日:2010年03月09日(火) 23時23分46秒
忘れたけど、何かの事情(家族関係等)で帰れなくなったんじゃなかったか?
4投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2010年03月09日(火) 23時25分11秒
2の解釈であってんじゃないの?
5投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2010年03月09日(火) 23時38分14秒
1889年、加賀藩の足軽頭だった小畠家の小畠弥左衛門吉種とハルという名の女性の間に私生児として生まれた。生後まもなく、生家近くの、真言宗寺院雨宝院住職室生真乗の内縁の妻赤井ハツに引き取られ、その妻の私生児として照道の名で戸籍に登録された。住職の室生家に養子として入ったのは7歳のときであり、この際室生照道を名乗ることになった。私生児として生まれ、実の両親の顔を見ることもなく、生まれてすぐに養子に出されたことは犀星の生い立ちと文学に深い影響を与えた。「お前はオカンボ(妾を意味する金沢の方言)の子だ」と揶揄された犀星は、生みの母親についてのダブルバインド(二重束縛)を背負っていた。『犀星発句集』、(1943年)に見える

夏の日の匹婦の腹に生まれけり

の句は50歳を過ぎた後も、犀星がこのダブルバインドを引きずっていたことを示している。

抒情小曲集の「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」の詩句が有名である。この句の通り、文壇に名を轟かすようになった後も金沢にはほとんど戻ることがなく、そのかわり犀川の写真を貼っていたという。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A4%E7%94%9F%E7%8A%80%E6%98%9F

この辺の家庭環境だったような。
もうちょっと調べてみる。
6投稿者:金沢か  投稿日:2010年03月09日(火) 23時43分02秒
波平さんは野糞のような人だ…
7投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2010年03月09日(火) 23時45分32秒
相変わらずジオシティーは文字化けすんな
8投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2010年03月09日(火) 23時46分27秒
IE?
9投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛アホー  投稿日:2010年03月09日(火) 23時51分13秒
こうはさん・・・
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