小学校に二宮金次郎像が無かったら人生変わっていたか?
1投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2011年01月22日(土) 11時02分37秒
変わらんな
子供のとき働く必要がなくて良かったと思っただけだ
2投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2011年01月22日(土) 11時07分11秒
タバコの吸い殻を口にくわえさせたりして遊んだな
3投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛アホー  投稿日:2011年01月22日(土) 11時12分39秒
ぱんつかぶせたりな
4投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2011年01月22日(土) 11時14分05秒
夜中に歩いたりな
5投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2011年01月22日(土) 11時15分22秒
二宮金次郎像ってのは何時頃まであったんだろう?
実物見た事一度もない
6投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛アホー  投稿日:2011年01月22日(土) 11時19分43秒
小田原駅にあるよ
7投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2011年01月22日(土) 11時20分57秒
各地の小学校などに多く建てられた、薪を背負いながら本を読んで歩く姿に関する記述は、1881年発行の『報徳記』で現れる。ただし、薪を拾って売り、その金で勉学をしたのは事実だが、このような姿で実際に歩いていたという事実はないとされる。報徳記を基にした幸田露伴著の『二宮尊徳翁』(1891年)の挿絵で、はじめて薪を背負って歩く姿の挿絵が使われた。確認されている最初のこの姿の像は、1910年に岡崎雪聲が東京彫工会に出品したものである。1904年以降、国定教科書に修身の象徴として尊徳が取り上げられるようになった。小学唱歌にも二宮金次郎という曲がある。
これらの学校教育や、地方自治における国家の指導に「金次郎」が利用された経緯には、尊徳の実践した自助的な農政をモデルとすることで、自主的に国家に献身・奉公する国民の育成を目的とした統合政策の展開があった。この「金次郎」の政治利用は、山縣有朋を中心とする人脈によって行われており、特に平田東助・岡田良平・一木喜徳郎らによる指導が大きかった[3]。
8投稿者:ヾ(゚д.゚)ノ゛バカー  投稿日:2015年05月30日(土) 11時50分49秒
父島でみた二宮金次郎像は首が無い。米兵がおみやげに持ち帰ったらしい。
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