ていうかおじさんさぁ
1投稿者:女子高生  投稿日:2008年02月12日(火) 16時11分21秒
善人でも極楽行けるのに悪人が行けないわけないじゃん。
知らないのぉ?
2投稿者:エンゼル主婦  投稿日:2008年02月12日(火) 16時12分50秒 ID:..mOwL6T
難解
3投稿者:こうは  投稿日:2008年02月12日(火) 16時13分37秒
短大卒には親鸞は難しすぎるらしい
4投稿者:エンゼル主婦  投稿日:2008年02月12日(火) 16時16分37秒 ID:..mOwL6T
親鸞なんてしんらん
5投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2008年02月12日(火) 16時17分34秒
握忍商機
6投稿者:こうは  投稿日:2008年02月12日(火) 16時22分47秒
俺も知らんよそんなもん
わけのわからない騙りしやがって
7投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2008年02月12日(火) 16時24分10秒
親鸞知らないってどんな馬鹿なの
8投稿者:納豆詩人  投稿日:2008年02月12日(火) 16時25分19秒
確か孝行で習う筈だから知ってる筈だけどなぁ、バカでも
9投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2008年02月12日(火) 16時25分49秒
くさつーが頭が弱い人、低学歴の人ほど普段あまり使わないような言葉つかいたがるって言ってたイビ
10投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2008年02月12日(火) 16時25分52秒
ていうか
悪人>善人
が前提っぽいがその点は
11投稿者:こうは  投稿日:2008年02月12日(火) 16時26分14秒
名前くらいは知ってるさ
俺はそれで知ってるというほどアホではない
12投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2008年02月12日(火) 16時27分06秒
実際には、悪人の方が悩み苦しみ後悔する機会が多い、という話だ。
13投稿者:こうは  投稿日:2008年02月12日(火) 16時28分23秒
悩んで苦しんで後悔すればいいのか
おめでてーな
14投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2008年02月12日(火) 16時28分31秒
乳首コーハ涙目。
15投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2008年02月12日(火) 16時29分54秒
13世紀の人間にツッコミを入れて現代人と同じ理論展開を求める馬鹿。
16投稿者: 投稿日:2008年02月12日(火) 16時30分21秒 ID:kFiti5Fm
親聯
17投稿者:こうは  投稿日:2008年02月12日(火) 16時34分46秒
13世紀の人間の話持ち出しておいてアホか
18投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2008年02月12日(火) 16時38分03秒
何世紀の人間の話題しようと、
現代の価値観で判断するのはとてつもないアホだ。
お前がガキの頃に大人の価値観を100%押し付けられなかっただろ。
子供のやること、昔の人の考えたこと、という寛大さがあって当然だからだ。
19投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2008年02月12日(火) 16時39分04秒
悪事をはたらけばはたらくほど
「うわ〜、こんな俺では極楽にいけない。誰か俺を助けてえ!!悪事は止めないけれども」みたいな状態に陥っていく
これを「他力本願」といい。「本願寺」はここから来ている。
つまり誰かの力で極楽行きたいと思う心の強さは、悪人であればあるほど強いというわけだ。
親鸞は弟子に「今から100人殺して来い。さすればお前の極楽行きは確実だ」と言いつけたことがあるほど。
20投稿者:エンゼル主婦  投稿日:2008年02月12日(火) 16時40分24秒 ID:..mOwL6T
なるほどなあ。カロビーは勉強になるなあ。
21投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2008年02月12日(火) 16時42分45秒
実情は単なるこすい信者獲得手法なんだけどな
22投稿者:こうは  投稿日:2008年02月12日(火) 16時47分02秒
そう思う>>21
悪人のほうが金もってそうだしな
けど寄進なんかしたら悪人アピールになるから大失敗っぽいな
23投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2008年02月12日(火) 16時48分27秒
念仏すら必要ないと説いたから。
ナンミョウ教よりはうるさくなくていいぞ。
24投稿者:こうは  投稿日:2008年02月12日(火) 16時49分03秒
親鸞がアホっつーより如何に周りがアホばっかりだったかっつーことだな
僕はアホではないのでアホのように考えることはなかなかできない
25投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2008年02月12日(火) 16時54分46秒
親鸞のことなにも知んらんくせに
26投稿者:エンゼル主婦  投稿日:2008年02月12日(火) 16時55分21秒 ID:..mOwL6T
>>25
>>4
27投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2008年02月12日(火) 16時56分52秒
俺は過去は振り返らない主義なんだ
28投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2008年02月12日(火) 17時04分22秒
(親鸞)唯円 『歎異抄』
(1)われわれは弥陀の誓願不思議に扶けられ、念仏によって摂取不捨の利益をうける。その弥陀の本願は老少善悪を問うことはない。なぜ善悪さえ問わないか。本願を確信し念仏をすればそれ以上の善根を積み重ねる必要はないからだ。
  (2)親鸞が何か本質的なことを隠しているというようなことを邪推する門侶がいるようだが、そんなものはない。また念仏によって浄土に行くか地獄に落ちるかなどということも、私・親鸞はまったく関心をもっていない。善導・法然の教えを守っている念仏無間の者なのである。
  (3)世間では、悪人さえ往生できるのだから善人はいうまでもなく往生できると考えているようだが、そうではない。自力作善の善人さえ往生するのだから、まして悪人はなおさら往生できる。なぜなのか。悪人は他力に頼れるからである。悪人こそは本願の正因を宿しているというべきなのだ。
 (4)慈悲には聖道門と浄土門の二つがある。聖道門はものをあはれみ、かなしみ、はぐくむものの道で、自力の努力に対する救いだが、なかなか難しい。浄土門は凡夫が願うものだが、かえって自在に救いを頼めるにちがいない。

  (5)念仏とは自身でつくったものではなく、すでに与えられたものである。この線に沿って仏果をひらく心をもてば父母孝養の追善にも、その父母の背後の生きとし生けるものにも済度することができるであろう。
  (6)親鸞の弟子の「ともがら」には区別はない。そもそも親鸞は弟子をとらない。私の教えに沿って念仏をするものこそが弟子であり、自然(じねん)のことわりというものである。
  (7)念仏者は無碍の一道である。
  (8)念仏はこれを唱える者からみると非行非善である。念仏は自分のはからいの力ではなく、仏力のあらわれなのである。
  
29投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2008年02月12日(火) 17時04分28秒
(9)救われる手がかりのない者が救われることこそ、真に驚くべきことではあるまいか。この世は苦しく悩ましいものだが、それがわれわれの原郷なのである。また浄土は安楽だといっても、とはいえ浄土を恋しくは思えないものである。しかしわれわれの寿命はいずれは尽きる。このとき急いで浄土へ赴こうとしなかった煩悩具足の者が往生できるということこそ、やはり驚くべきことではあるまいか。
  (10)念仏は無義なのだ。

  (11)一文不通の念仏による往生を、誓願ゆえの不思議とみるか名号ゆえの不思議とみるかというような区別をすることはない。これらはひとつである。むしろ注目すべきは、名号を唱えるだけの易行ですら、辺地懈慢・疑城胎宮の往生が可能になっているということなのだ。
  (12)単に専修念仏を唱えるばかりで経典や釈文を学ぼうとしないのは、あまりに無謀だという見方があるようだが、まことにつまらぬ見方だ。本願というもの、善悪浄穢をもってはいない。
  (13)生前、親鸞聖人が「そなたは聖人の言うことを信じるか」といわれたので「はい」と、「親鸞の言うことに違背しないか」といわれたので、また「はい」と言ったところ、「では、人を千人殺してみないか。そうすれば浄土に往生できる」と重ねて問われた。そこで自分(唯円)は「千人はおろか一人も殺せません」と答えたが、聖人は次のように戒めた。どんなことも思う存分できるなら、千人も殺せようし一人も殺せようが、逆に殺さないからといって善意があるからとはかぎらない。殺すまいと思って一人も千人も殺すこともあるはずだ。われわれは、毒を消す薬があるからといって好んで毒を飲んではならないのである、と。
  (14)一声の念仏より十声の念仏のほうがそのぶん安心を得られるという計算は、親鸞の教えにはない。念仏の数など親鸞は勧めたことはない。何であれ自身の多少のはからいで何かを得ようとする道には、まだ本来の他力本願の世界観がない。

  (15)いったいこの世で煩悩悪障を断ち切って悟るなどということはありえないのではないか。真言の即身成仏、法華の六根清浄のように自己努力によって覚醒できるのはごくごく稀なことで、ほとんどの凡夫にとってはありえないことである。むしろ煩悩具足の身そのままに未来成仏に往生するべきなのである。
  (16)ようするに悪業を断ち、廻心懴悔をしなければならないなどという妄想に囚われないことだ。生涯にただ一度の廻心があればよいではないか。
  (17)学者ぶって辺地にさまようものがあることを説くのは、親鸞が考えていないことである。むしろ辺地にすら弥陀の方便があると言うべきであろう。
  (18)寄進や施物によって証果が変わるなどということはありえない。仏法にかこつけて世間の欲望を煽って同朋を迷わせるのは言語道断である。
30投稿者:ヾ(゚д゚)ノ゛バカー  投稿日:2008年02月12日(火) 17時06分46秒
 ごく短いものだが、『歎異抄』(歎異鈔)には奥書があり、蓮如が認(したた)めている。「以上に掲げた歎異鈔という聖教は当流大事の聖教なので、宿世の善根もなく仏法に真摯に取り組もうとしていない者には無頓着に拝見させるべきではない」というようなことが書いてある。
 蓮如が慎重になるほどに『歎異抄』が苛烈な内容であると考えられていたこと、それだけにここには親鸞の本懐が述べられているのだから、これを真底大事にしたいという覚悟が伝わってくる。ことほどさように『歎異抄』をどう読むかということは、当初から取沙汰されてきたのである。
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